続「神作画」とは何か?

別題:山本寛氏のリアリズム←こっちが本題(笑)
http://d.hatena.ne.jp/Youth-K/20060617#p1
の続き。
あんまり引っ張るとこのエントリが更新の足枷になりそうなので、とっとと書いて逃げます(笑)。
で、どうやって書こうか考えていたんですが、とりあえず前出の『WEBアニメスタイル』animator interview なかむらたかし(3)での、なかむらさんの「リアル」についての発言を引用してみます。


なかむら リアル…………。いや、本当に「リアル」という事を、ずっと言われ続けたような気がする。
リアリティ、リアリズム、本物らしく動かすってね。
今、アニメでリアルな作品というと、世界観も人物も演出の見せ方も写実的な表現をしているものを言うんだろうけれど。
アニメがいつでもそれを求められるのは、アニメにある漫画的な通俗性と、その絵空事の空間や世界観を、少しでも観る側に、本当のように感じさせるためで、それが崩れると、キャラクターの存在や演出の意味が、全くなくなるわけです。


上記発言のように、アニメーションにおけるリアリズムは、絵の通俗性と空間の2次元性を如何に本物のように見せるか、という命題を常に背負ってきたと言えると思います。
で、そのリアリズムを追究するためには二つの方向性があるわけですね。絵の通俗性と空間の2次元性という嘘を肯定する方向と、否定する方向です。
嘘を肯定する方向というのは、いわゆるアニメ的表現や動きのデフォルメといった現実的ではない表現をリアルに見せる方法論です。例えば金田パースであったり、板野サーカスであったりといった「現実にはあり得ない描写手法」をとることで逆に表現にリアリズムを獲得していくという、一種の抽象化です。
一方の嘘を否定する方向というのは、現実を模倣する表現を追求することによってリアルに見せる方法論です。「限りなくありのままの現実を再現すること」で表現にリアリズムを獲得していくという、一種の写実化です。
で、「神作画」云々というのは、明らかに後者について言われているわけですね。例えば#12第12回「ライブアライブ」でのライブシーンの音と動きのシンクロや文化祭の雰囲気などが極めて忠実に現実を模倣しているように思われることを「神」だと言うわけです。
で、これは前出のエントリで触れたように「演出の要請によく応えている作画」であり、言い換えるなら、これは「細部の再現性が極めて高い作画」であるということです。
で、ほんとはここからが本題なんですが、「ライブアライブ」における写実的な細部の再現性は、ラストのハルヒキョンの叙情的カットの幻想性を最大限に強調します。なぜならあの木陰にいるキョンハルヒのロングショットにおける背景の「飛ばし」は、あれだけ細部の再現に拘ってきた中で初めてついた演出上の「嘘」なわけですから。
ライブアライブ」を見てようやく気付いたんですが、本作における山本さんの演出では、写実的な細部は本当に描きたいことではないと思うんですよ。あの細部の再現性はあくまで被写体に接近するための必要条件であり、視聴者に対するサービスであり、ネタフリだと思うんですね。或いは穿った見方をすれば照れ隠し(笑)。
なのでそうした細部の再現性の高さは本当に凄いとは思うんですが、安直に「クオリティタカス」と言ってしまうことに甚だしい抵抗感を無意識のうちに感じていたようです。白状すれば、それゆえの「神作画」って何さ? という喧嘩腰のタイトルだったわけで(笑)。
恥も外聞もなく言えば、俺はもうあの木のロングショットで完全にやられてしまったんですよ。ああこれが山本さんの言う被写体への接近なんだ、と。
キャラクターの内面的変化にフォーカスしているという意味で、似通っている#13第11回「射手座の日」も#12第12回「ライブアライブ」も、細部の再現性で言えば、甲乙付けがたいほどのクオリティでしょう。でもこのふたつの話数における、厳然たる相違というのが、演出におけるキャラクターに対する誠意の有無なんですよ。
私にはどうしても「射手座の日」におけるあの圧倒的な細部の再現性が、パロディを描くための手段であるようにしか見えなかった。あれでは細部のための細部に過ぎないんですよ、結局。なぜならその再現性はカメラが長門に接近するための手段に成り得ていないから。
しかし「ライブアライブ」ではその圧倒的な細部の再現性を踏み台にして、あの木のロングショットに、その細部の全てを昇華してしまう。
これが被写体に対する誠意の違い以外の何だというんだ!
本作において、写実主義的な細部の再現性のみに耽溺するリアリズムなんて、私にとってはほんとにくそくらえ。
本当以上に本当の「虚実」に満ちたリアリズムが、山本演出のフィルムには映っているのだから。



追記

本エントリの目的は「リアリズム」とは何かを追究することではなく、「木を見て森を見ない」こと、つまり本作における細部のあまりのリアルさにのみ感心して、そのリアルさが我々に提示している主題についてあまりに無関心なのではないかという私の個人的な不満を自戒を込めて明らかにすることにあります。
冒頭で一般論としてのリアルさについて若干触れたのはそのための手段に過ぎませんので。私ごときがアニメにおけるリアリズムを語るなど片腹痛いことですから。
為念。

追記の追記

追記の取り消し線部分、
「そのリアルさが我々に提示している主題」
→「そのリアルさに耽溺することが作品鑑賞を阻害していること」
として頂けると幸いです。
http://bono.chips.jp/archives/2006/06/opso.shtml
ほとんど嫉妬に近い感動を覚えました(笑)。私の乏しい国語力では全く表現できなかったのですが、オレハソレガイイタカッタノデス。「全然ちゃうやん!」と言われようとも。
皮肉なことに、こうした「消費」に抗う提言でさえ「情報」として「消費」されてしまうのが現状。んなこたぁ分かってる。
しかし、それでも言わずにおけないという、このペシミスティックな文面から溢れ出るオプティミスティックな態度に私は胸を打たれました(勝手に)。


我々はオタクの死を認めねばなるまい。だが、オタクとして生きる意志が(少数にせよ)ある限り、その死は「再生=復活」の為の「死」に相違なく、死にながら生き続けるという撞着的な新たなオタク像を、我々は模索せねばならないのだろう。


いい加減、自分の言葉で語りたい。