アニメ版『アニマル横町』始末

アニ横』が最終回だという喜ばしい事実(←失言)を仄聞したので、久々に真面目に見てみた。横谷脚本で無難な出来でしたが、やっぱというか当然というか、乗り切れず。
第1,2クールは時々面白いなあと思って真面目に見ていたのですが、第3,4クールはがたがたでほとんど真面目に見てません。
何度か書きましたが、問題の本質はキャラクターの改変です。
そもそも、アニメ版の『アニ横』は構成上の都合か、原作とキャラクターの立ち位置や性格そのものが微妙に異なります。総括として、キャラのどこがどう違うのかいちいち具体的に列挙してみようかとも思ったのですが、やっぱめんどいのでやめときます(笑)。
一応具体例を思いつくままに挙げると、ヤマナミさんはアニメではストーリー進行上ご都合主義的な展開を正当化するのに便利なキャラとして頻繁に登場しますが原作ではそれほどの出番はありませんし、あみ父母も顔を出さないという存在自体がギャグの一要素としてアニメ版では用いられていますが、原作では捨て置かれています(笑)。主役のあみちゃんも原作では冷徹な側面が描かれているのですが、誰に配慮してかわかりませんが(笑)、非常にニュートラルな立ち位置になっています。第14回放送分Aパートで横谷氏があみちゃんのキャラが(アニメでは)立ってないと自虐的に書いていたのには嗤いましたが。
更に困ったことに、そうした微妙なキャラクターのニュアンスの違いがそれぞれの脚本家の筆ひとつで話数毎に一層改変されていくわけです。良くも悪くも、筆致が常に一定しない。それゆえアベレージが低調になってしまっていたという印象があります。まあだからこそ(滅多にないが)面白い話数は飛び抜けて面白く感じたわけですけど。
その枷をもった上で物語を構築するため、脚本家独自のオリジナルエピソードは原作からかけ離れた性質のものとなってしまい、見ていてちとしんどかった。
アニ横』は原作が不条理ギャグマンガなので、物語自体はどのように転がして書こうと原作と齟齬しないという非常に大きいキャパを持っている。ただひとつ、前提としてキャラクターだけ遵守しさえすれば。
しかし残念なことに原作の滅茶苦茶な物語を許容する不条理という自由をはき違えてしまったのか、キャラクターはいまひとつ守られなかった。
女児おいてけぼりのパロディやギャグといった原作っぽい性質のものも、原作の持ちうる魅力の表層をなぞっただけで『アニ横』のキャラクターという守るべき本質を損なっているだけに、穿った見方ですが私には上辺だけ取り繕っているようにも見えてしまった。
ま、中途から原作とアニメは別物だと割り切った(開き直った?)のでいいんですけど。


長々と何だか文句ばっかり並べてしまいましたが、面白い発見もありました。
例えば、私の「TVアニメは(話数毎の)演出家のものである」という認識を打ち崩したこと。『アニ横』は話数毎の脚本家のものでした。もっと言えば、「演出家のものに見えるTVアニメは映画的であり、脚本家のものに見えるTVアニメはドラマ的だ」という具合。
それに園田英樹氏の脚本はギャグものに付きものの風刺性なども感じられて面白かった。


出し抜けに、<アニ横面白話数ベスト5>(根拠は曖昧な記憶ですが(笑))

  1. 第23回放送分Bパート 「どき☆どき アニ横新聞の巻」(脚本:園田英樹
  2. 第1回放送分Bパート 「どき☆どき 扉を開くの巻」(脚本:横谷昌宏)
  3. 第8回放送分Aパート 「どき☆どき 突っ込み道の巻」(脚本:横谷昌宏)
  4. 第16回放送分Bパート 「どき☆どき 趣味いろいろの巻」(脚本:竹内利光
  5. 第42回放送分Aパート 「どき☆どき アニ横のウラ側の巻」(脚本:竹内利光


まあ、湯水の如く溢れかえる昨今のTVアニメ史的には別段どうということもなく、作画が初回から最終回まで徹頭徹尾原画レベルから海外丸投げであるという後々のスタンダードになるかもしれない先駆的なTVアニメのひとつとして記憶に留まることさえもなく、凡庸な作品としてただひたすら忘却されるのみなのでしょうが、私にとっては1年通じて色々と勉強させてもらったという意味では思い出深い作品となりました、ということで。