私の感じた時系列シャッフルの意義

マーラーの8番はやっぱり山本さんの選曲なんでしょうね。
ということで、天の邪鬼な私は、『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回についてこれ以上触れることなく、一連の監督発言によってケリがついたと世間的に思われているにも関わらず、本作における時系列シャッフルについて改めて言及するという暴挙に出ます。
本作における時系列シャッフルは、石原監督が語っていたような効果はもとより、私にとってはTVアニメというシリーズものにおける「作家的」連続性を断絶させる装置として非常に強烈な機能を果たしました。以降、その「作家的」連続性の断絶と、それが本作に何をもたらしているのかについて、少し語ってみます。
TVアニメというシリーズものにおいて、現代の視聴者がより求めているのは「作家性」ではなく、作品の商業的「一貫性」です。突出した作画、突出した演出など、表現における突出した細部は、現代の視聴者にとってシリーズの一貫性を齟齬にする要素に過ぎないからです。
その良し悪しは別にして、過去に関わってきた作品において、常に突出した存在であった山本演出を、時系列シャッフルという「突出した」構成によって、いつもの山本演出を保全しつつもシリーズの整合性を保つことに成功した作品、それが私にとっての『涼宮ハルヒの憂鬱』でした。
時系列シャッフルによる時間的、空間的断絶は、各話数ごとの連続性の断絶と同義です。つまり、シリーズものに要請される一貫性を、視聴者に向けて予め放棄できたわけです。
逆説的に、それは「作家性の解放」に繋がる。分かたれた断片はシリーズものの一部としてではなく、一個の小品として、シリーズに散りばめられるからです。
AIR』や『ふもっふ』、『TSR』といった自社制作作品においても、山本さんの演出は良し悪しはともかく、シリーズの一貫性を損ねるほどの圧倒的な存在感を放っていました。そしてその比類無き「作家性」を保全しつつもシリーズの一貫性を守るという二律背反的な要請を達成するための「禁じ手」の要素が、結果的に時系列シャッフルという方法に内包されていたように私は感じます。
もっとも、作家的突出を見逃せに出来ない一視聴者としては、本作はそれをカモフラージュしようとして、還ってその突出が際だってしまったという印象を持ちます。しかし、カモフラージュであれ、強調であれ、そのいずれも受け手の印象の問題であって、そんなことは(本質的には)どちらでも構わない。
ただ、時系列シャッフルによる「作家性の解放」について、制作スタッフが自覚的だったかについては私は懐疑的です。もしこの方法の立案が山本さんによるのだとしたら、こうした意図も含まれていたのではないかと邪推したくなりますが(笑)。
まあそれでも私にとっての本作における時系列シャッフルの意義は、終わってみたら山本寛という「作家」を際だたせる装置以外の何物でもなかったなあという印象でしたね。ラス前とラストを見て、「あーいつもの京アニ作品だなー」と思って、その意を強くしたのでちと書いてみました。



ま、信者の戯れ言ですので、軽く流してください(苦笑)。