1ファンとしての『先輩』に関する一つの解釈

あまりにも素晴らしい映画なのでネタバレするのはもったいないから公開終了まで大人しくしていようと思ったんだけど、巷の評があんまりなので少々。


(↓以下ネタバレ)


張りぼての地球やむき出しのワイヤーが臆面もなく使われていること、早回し等特撮の技法を用いて撮っていること、うざいほど耶麻子のモノローグを積み重ねていること、妙な質感を持った光の当て方をされた画作りをしていること等々、視聴者が面くらったり躓いたり不可思議に感じたことは、みな意図的に行われたことであることに疑義をはさむ余地はない。


なぜ、そのような方法をとったのか。以下私見


それは耶麻子の精神世界が極めて「マンガ・アニメ」的な、薄っぺらい世界だから。そこには「におい」も質感もない、2次元的平面世界が広がっているから。都合のいい自意識だけで出来上がっている世界だから。
だから、視聴者が面くらったり拒絶反応を示すのは、ある意味当然だと言える。なぜって、それは「耶麻子にとって都合のいい」世界で、他者にとっては到底受け入れられない世界なのだから。友達や好きな相手はもちろん、両親にさえ心を開かず、卑怯な自分の心に従って、好きなこと、気持ちのいいこと、都合のいいことだけを積み重ねて生きてきた「主観的」で歪んだ世界なのだから。
その証拠に、カメラは徹頭徹尾耶麻子に寄り添い、耶麻子の欠落したシーンはこの映画において一度たりとてない。セカイ系と称される作品に多々見られることだが、本作も類に漏れず、耶麻子の「主観のみ」によって構成された作品である。耶麻子の世界は、非常に脆弱で危うい。そういう観点でみると、本作はセカイ系でありながら、反セカイ系の映画であると言えるだろう(深入りはしないが)。
それを描くためにわざと上記のような方法をとっていると仮定すれば、様々な疑問が氷解するだろう。


そんな耶麻子に対し、山本寛がリアルな世界を感得させるために用いた手段(原作未読なので確証はない)が、先輩の「におい」や「ぬめり」である。不自然なまでに繰り返される不破先輩のにおいに対する言及。


「あたりまえだろ! 生きるってことはくせえってことなんだよ!」


彼女は迫りくる死という自分の運命に背を向けて、自分に都合のいい世界を作り上げていただけにすぎない。「優しくない先輩」は、単に耶麻子の「セカイ」にとって都合の悪い先輩だったというだけのことだ。
しかし、誰よりも耶麻子のことを考えて行動をしてきたのは、他ならぬ優しくない先輩である。
不破は、好意を持つ耶麻子に、「生」とは何かを、スクリーンに映らない「におい」や「汗」で伝えている。
この映画は、耶麻子という人形が不破という人間「くさい」男の一連の行為によって、身体を獲得していく映画なのだ(もちろん、そこには昨今のアニメ業界に対する批判的なダブルミーニングが含まれていることにも我々は自覚的でなければならないだろう)。
監督自身、制作当初はやりたくなかった*1と言っていたラストのダンスは耶麻子の生命の輝きの象徴として、映画に必要不可欠な要素にまで昇華されている。


「理詰めではなく感覚で撮った(大意)」*2、と山本監督はインタビューで答えていたが、上述の通り私は全くそうは思わない(謙遜含めて、本音で答えていると思えない)。
仮にそうだったとしても、この眼前に広がる僥倖の前にはそんなことはどちらでもよく、最早何の意味をもなさない。
ややもすれば、重苦しく内向的で批判的で独りよがりになってしまいそうな題材やテーマを、ここまでまとめ上げて魅せる山本寛という才能に、私は嘆息せざるを得ない。