『カレイドスター』

全話視聴後感想まとめ
第40話から第51話まで一気に視聴。
いいものを見せてもらいました。ありがとうございました。特に50話のBパートは涙が止まりませんでした。
何をどう書くべきか困ってしまいますが、(いねーと思うけど未視聴者のために)具体的に作品について書くのは避けて、抽象論でお茶を濁します。


この作品を見ていて感じていたのは、解釈における表層とメタです。
やっぱりメタ的に面白くてもそれだけでは意味がないと思うのですよ、私は。それは受け手の解釈に依存するもので、そんなものを目指すのは作り手としては無責任だと個人的には思います。というか受け手を選ぶような作品はダメだと思う。
これは私自身の哲学になってしまいますが、というか俺がそら(とサトジュン)に共感しているのがバレバレだけど(笑)、作品を見ているみんなが楽しく感じるべきだと思うのですよ。
受け手は勝手に好きなこといえばいいから、メタ的に楽しもうと、映像や演出を解釈しようと、批評しようと、こきおろそうと、礼賛しようと、作家作品論を語ろうと、それは自由だと思う。でも作り手は「みんな」を楽しませようとしないとダメだと思うんですよね。
別に良し悪しを論じるべき問題じゃないですが、アニメという表現媒体自体がすでに偏見と特殊性という色眼鏡で見られているわけで、その上最初からオタクのためだけのアニメとか、間口を限定した企画は良くないと思うんですよ。
ハチクロ』みたいに一般向けにアニメを作るというような大仰な企画じゃなくてもいいんですが、オタクがオタクのためだけにアニメを作るのは、やっぱ良くないし、そういうアニメばかりを喜んで見るのも、やっぱり良くない。
それは市場がスポイルされるからとか、アニメ界の発展のためとか、そういう高尚なマクロなレベルじゃなくて、私個人としては純粋に、面白くてもすぐに忘れてしまいますから、そういう作品は。魂の抜けた人形みたいで。
パロディがパロディとして面白いのは、オリジナルが偉大であるからであって、オリジナル(=絶対)の希求こそが周縁のパロディ(=相対化)を導けるわけで、それゆえ永遠にパロディはオリジナルに到達し得ない。
あんまりまとまってませんが、言いたかったのは、『カレイドスター』はオタクとして見ても楽しい、何も考えずに普通に表層的なシナリオを追うだけでも心底感動できる、そういう稀有な作品だったということです。


まだ第52話や『レイラハミルトン物語』とかは見てないので、今から視聴が楽しみです。