『あたしンち』

第25回 「ベア研の文化祭(前編)(後編)」
見ながらいつの間にか寝入ってしまった(笑)同巻収録の他話数と違って、まったく予断を許さないスリリングさ。
レイアウト、光源、アングル、カットのテンポや音楽の使い方など、あまりにも他の話数と違うので、見ていて思わずにやついてしまう。
しかし、そんなことよりなによりも山本さんらしいと思ったのが部室でのベア研部員たちに差す光と影。冒頭から、部室の窓から差す(多分)西日が、普段は描かれない人物への陰影を付ける。
勿論、このいつもと違う陰影が、日常を描く普段の『あたしンち』と比して、文化祭という非日常を描出するための免罪符となっているのだ、などという馬鹿みたいなことをいうつもりはなく、陰影を付けるという行為そのものにただただ感心。

江戸期、絵師たちは西洋画を知っても、「これは本物そのものだ」と主張すべきモノにしか陰影を付けなかった
という*1
線と色面だけによって描かれる人物は抽象(デフォルメ)としてのリアリティをもつことができる。そこに敢えて光をぶつけて影を出すことでデフォルメの本物っぽさを壊すかもしれないリスクを冒し、別種の「本物」っぽさを求めんとする様が実に山本さんらしいと勝手に思った。*2
もっとも、みかん以下ベア研部員たちが「これは本物そのもの」と主張すべきモノになっているかどうかは分からない。いろいろと不完全燃焼だったんじゃないかという気がする。ラストでの新田のしょーもないオチも含めて。
でも「本物そのもの」を志向する山本さんの誠実な態度によって生み出される浮沈ギリギリの感覚をとってもスリリングに感じたのでした。*3


*1:高畑勲『十二世紀のアニメーション』(徳間書店)より引用

*2:勿論、江戸期の画とアニメの画を単純に同列に扱うべきではない。そもそもアニメは「時間的」なので画そのものが表すべき性質が異なるはずである(つまりアニメの「本物」っぽさは画だけに依存しないであろうということ)。

*3:とどのつまり、私はいつも山本さんの演出をスリリングに感じてるということです(笑)。