私がライトノベル原作アニメを苦手とするわけ

彩雲国物語』に対する処々の感想系の反応を見てようやく気が付きました。
ノベル原作というものは、当然活字がベースでそこから映像を一から起こすわけですよね。アニメ化するほどの作品なのですから、原作は非常に人気作であることは疑いありません。
つまり、原作ファンに納得してもらうために原作に忠実にあろうとする場合、1話目はどうしても設定を文章的な説明セリフによって進めざるを得ない。小説ではセリフであれ地の文であれ、何らかの対象や観念について、文章という表現によって説明します。ですからアニメでの文章的説明セリフは原作ファンなら、「よし原作に忠実に作っているな」と感心するところなのでしょう。
ところが原作未読で「映像」作品としてのシナリオの出来が気に掛かってしまう自分としては、「不必要な説明セリフが多すぎてつまらない作品」という印象になってしまうようなのです。
具体的に言うと、例えば紅秀麗が貧乏であるということを分からせるのに、「米を買えずに麦を食ってる」と彼女にセリフで言わせる必然性が「映像」としての表現にはないんです。そんなもん、買い物に行かせるシーンとか、家の米びつの中に麦が入っているシーンとかを「映像」として見せてくれればわかるからです。
しかし、小説だとそれがセリフだろうと地の文だろうと同じ活字という表現を取るため、「映像」的な描写をしていない。むしろそんなことをしても、活字のもつ魅力と齟齬することになるだけでしょう。
ただ厳然として存在するのは、活字と映像という表現方法の違いです。
マンガ原作の場合、マンガという表現方法自体が絵という「映像」表現を有していることと、それを絵コンテに見立てるようにして、アニメーションとして昇華する技術力が向上したために、メディアによる表現の差異が小さくなっていったのだろうと思います。
しかし、小説の場合は活字媒体であるため、脚本家が活字から映像へと表現のトランスレートをしなければならない。ですからマンガ原作とは別に要求されるハードルがあるのだと感じます。
シリーズ構成が百戦錬磨の吉田玲子さんでも話の中での説明セリフが気になってしまうわけですから。