『涼宮ハルヒ』と「藤岡ハルヒ」

今日一日中近所の図書館でアニメージュを読み倒していたんですが(←暗いなあ(笑))、4月29日に記したようにどうして自分が『涼宮ハルヒの憂鬱』よりも『桜蘭高校ホスト部』の方にアニメとしての魅力を感じるかについてのヒントを発見したので備忘録として記しておきます。
2006年3月号での五十嵐卓哉監督とシリーズ構成の榎戸洋司氏のインタビュー記事なんですが、自分のメモによると「ハルヒは完全であるはずの鏡夜にとっての不確定要素で、ホスト部自体が、家庭に問題を抱えている部員達にとっての擬似家族である」とのこと。
環を筆頭にぶっ飛んだ特殊なキャラばっかり登場する割には、個人的には何故か不思議とホスト部の面々に親しみを感じていたんですよ。それは心にどこか傷を抱えていて、ホスト部は心の傷を癒すための擬似家族であるという設定の普遍性に共感する部分があったんですね。その根拠として2006年2月号でのインタビューで榎戸さんは「マニア向けの特殊なドラマではなくて、誰にでも分かる普遍的な物語になっている」とおっしゃっています。
良くも悪くも『涼宮ハルヒ』は「普遍的な物語」ではないですよね。で、自分としてはドラマとしてマニア向けに自己完結した作品よりも、ドラマ自体に、というかキャラクターに「普遍性」を求める傾向にあるので、『桜蘭高校ホスト部』の方が好きなんだろうなあと。ま、程度の問題ですけど。
あと、同じく2月号で五十嵐監督が「榎戸さんは漫画のテンポをアニメーションの文法に置き換えるときのやり方が実に鮮やかなんですよ」と語っていたのには思わず首肯しました。


それと、関係ないですけど、3月号での石原立也監督のインタビューが面白かったです。今読むとすごく秘密主義的で、意図的に作品の設定を口にしないようにしているなあと感じます。「谷川流先生からの注文は、構成協力してもらってるから何もなかった」とか制作の裏側は語るのに、古泉が超能力者であるという公然の事実さえ語ろうとしない(笑)。
印象的なセリフとして「日常芝居をリアルに描くのは難しいのでアングルに凝っていてアニメーターに苦労をかけている」「非日常を描くには日常描写をきちんと積み重ねていくことが大事」みたいなことが自分のメモには書いてあります(ぉぃ)。日常描写のアングルについては第5話の「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅲ」を念頭に置いてしゃべっているような感じがしました。