『フルメタル・パニック?ふもっふ』

第3話 「すれ違いのホスティリティ」 / 第4話 「空回りのランチタイム」
すごい演出ですね、これ。この第3話、第4話はちょっとハンパじゃない。
以降、見ながらメモした部分を抜粋。


第3話
冒頭の「夏」の字の大写しの後に空と雲のカットを入れ、「目」の字の大写しの後にかなめの目のアップを挿入。500円玉が回るカットと焦燥感漂う一部の学生達、ドアを見るかなめをカットバックで入れることで、何らかの買い物を急いでいることをモンタージュで示唆。回転数の落ちる500円玉がモータースポーツで言うところのシグナルの役割を果たし、意味付けされています。だらだらと薀蓄を垂れている国語教師の呑気さが対比的に用いられることも相俟って、このシークエンスの多量のカット割がスピード感溢れるテンポを生み、時間に追われている雰囲気を、サスペンスを創出しています。
会長の扇子に書かれた文字が「ZONEラブ」となっていて噴出す(注:山本寛氏はZONEのファン)。
会長の顔アップで「特にM○YU」となっていてさらに大笑い。
「モ●娘6期が」「憶えられない」と自虐ギャグを展開。内容的には我が意を得たり(笑)。
三日間連続する小暮先生の陰謀からその撃退シーンまでのシークエンスのテンドンは非常に見事。この辺りのギャグセンスと間は関西人特有ですかね(笑)。カット割のテンポとシーン毎の順番は変えずに、キャラの行動を日ごとに変えることでサスペンスを生み出し、見る側に単調さを阻害して魅せてくれます。
間に挟まる男子生徒の体育のシーンが面白い。初日は同調するジョギング。二日目はカバディ。ぶっ倒れる男子生徒に大笑い。三日目は同調した某消費者金融みたいなダンス。ハルヒダンスの原型ここにあり。


第4話
相良の顔アップと自身の想像シーンをオーバーラップ。
古典ノートを渡すかなめと相良のやりとりが切り返し連発。
古典ノートを忘れた相良とかなめのやりとりが切り返し連発。恐ろしい速度での切り返しカット。
かなめ硬直後に、俯瞰を撮り、間を充分に取ることで切り返しのスピードとの対比がきれいに表れて見事な効果になってました。
ノートを取りに教室を出て廊下を駆けるシーンは、カットを割らずにカメラワークで空間を演出。
階段を上るシーンを4連続で見せるのはすごい。同じ画面が4回続くのに全く飽きさせないのは次は実は違うのではないかという視聴者心理を逆手に取っている印象。それと、やっぱ作画が良いからでしょうが。
相良の漕ぐ自転車のカーブでのバンク角は無理でしょ(笑)。ぜってーコケるって(笑)。
自転車に乗りながら空と雲と飛ぶ白鳥を映すシーン。や、映すと思った空と雲(笑)。かなめの横顔なめで空の青さを映した後に、尻なめローアングルから透過光を入れつつ空と雲のショット。牧歌的なカットと音楽、相良とかなめのほのかなラブシーンを入れることで次にアクションシーンが入ることを暗示(←俺が穿ちすぎなだけか?)。
パトカーとの追いかけっこでは背景を一部3DCGに。カット割を中心にするもカメラを振りまくるシーンも。ミニパトはトゥデイ? 少なくとも平松晶子さんはパロディでしょうね。


他にも語るべきところが色々ありますが、とりあえずこんなところで。あまりにも映像的な情報量が多すぎてそういう観点で見てるとだいぶ疲れます(笑)。
絵コンテ段階で相当知恵を絞っていることが画からビンビン伝わってきます。もちろんそれをきちんと動かせる京都アニメーションの技術力には感服しますが。


やはり見ていて感じるのは、単純な切り返しを反復するカット割が小津的だということですね。
ぱっと思いつくだけでも、


・買い物後のかなめが相良をけしかけるシーン(第3話)
・相良が小暮先生の嫌味を受け流すシーン(第3話)
・古典ノートを渡すかなめと相良のやりとりのシーン(第4話)
・古典ノートを忘れた相良とかなめのやりとりのシーン(第4話)


などは同じアングルからの切り返しを連発しています。
安易に小津的とかいうと蓮實重彦氏に怒られますが(笑)。
ただ、アニメーションとしてはこうしたカット割によるリズム感は生命線であることは間違いないですよね。なぜならアニメーションは2次元であり、空間的広がりを持たないためカメラワークに頼ってワンカットでワンシーンを撮ることができないですから。
そういう意味では、第4話でのパトカーに追われるあたりのシーンで、背景を3DCG化し、カメラを振ることによって撮影していたのは非常に先鋭的で実験的。
しかし、やはりこの辺りを見るとアニメとしては違和感を感じます。ま、それは『BSアニメ夜話』の「イノセンス」の回で誰の発言か忘れましたが、押井守氏が語っていたとされるように、3DCG制作技術の未習熟と我々視聴者側の未順応という問題があるからでしょう。アレは人物の話でしたが。
山本寛氏も枯山水の御記帳で、かつてこう語ってらっしゃいます。

>カット割りが(ほぼ)全てのアニメに対して、実写はカメラを動かしてナンボっていう。
 見てても作ってても別物のはずなのに、同じ映像であるという驚き!


動かしてナンボっていうか、動かせるんだから動かそうよっていう。
アニメは所詮2Dですから、上手い事カメラを動かしたらフレーミングもバッチソのスムーズな1カットで済むところをいちいち割らなきゃならない。不自由ですね。まぁそれでアニメ独特のサンダグムを生み出したのは事実ですし、3Dソフトの発達でウチでも実写的な動かし方をだましだまし試みつつはあるのですが。

山本演出を語ろうとするならば、少なくとも小津映画とそれに関する蓮實重彦氏の著述を真面目に読む必要がありそうです。その前に、『映画の撮り方』みたいな映像表現のハウツー本を読むべきですね、私は(笑)。専門用語が分からないんですものorz


最後に、前出の御記帳にあった発言で、心底震えたものがあったので引用させてください。

正に「そこにある」世界にカメラひとつでぐいぐい踏み込んで行くような、そういうドキュメンタルな感覚で画を作れるか否か、でしょうかね。書き割りのような(例えばマルチプレーンで誤魔化しているだけの)アニメ的世界でなく。
確かにそうしないと、構図とカッティングに頼ってしまう今のアニメの風潮は変わらないかも。被写体に対する誠意がどうしても徹底出来ない。いやこれは他人事でなく。
す、すみませんでした・・・。自分は今まで構図とカッティングに完全に惑溺してました。アニメーションと実写は別物だという手前勝手で無根拠な信念から、「アニメは構図を楽しむもの」という穿った見方をしてました。私はこの発言によって山本寛氏を(勝手に)祀ることに決めましたよ(笑)。何といっても誠実ですもの、映像表現全般に対して。ま、その誠実さは映像表現者にとっては必要条件であっても十分条件ではないでしょうから、「そんなくだらねーことで祀るんじゃねえ!」と山本氏に怒られそうですが(笑)、その誠実さを画に反映させようとする姿勢に惚れ込んだというか。
チープな言い方になりますが、山本寛リスペクト。