『AIR』


今回は感想というよりも出来の悪い論文みたいなものです。なるべくスルーしてください。


第2話 「まち -town-」における山本演出の小津的装置「食べること」
今回の演出は山本さんらしくないように見える。それはカットを割りまくったり、切り返しまくったりしてテンポを出すことはないし、『ふもっふ』第3話、第4話に典型的に見られた映像的な凝り方も見られないからである。
だがほんとうに、この演出は山本さんらしくないのか。
山本的演出に典型的に見られるテンポの良さや凝った映像がないことで、この演出は山本的ではないと断じることが出来るのか。
そうした印象や解釈が成立するのは、かの演出を二つのベクトルに分けて考えていることに依る。それは演出における日常的な凡庸性と前衛的な先鋭性である。
しかしこの二つの演出的性質は同義である。
先鋭というのは映像演出における視聴者側の解釈の尺度に依存し、凡庸が映像演出において刺激がないというのも解釈に基づいた偏見である。なぜなら先鋭が普通に行われるならば、先鋭は凡庸となり「先鋭」だった演出は日常的に見られることになるだろうし、凡庸がスタイルとして確立すればそれは先鋭となるだろう、というほどの解釈上の相対的観念だからである。つまり先鋭にせよ凡庸にせよ、それらは視聴者側の解釈に依存するものであり、凡庸と先鋭という一直線上の同義性を極端から極端へ反復しているに過ぎない。
山本寛氏の演出が志向するものは先鋭でも日常でもなく、映像的普遍性における価値である。その価値の発露としての演出が我々をして先鋭であり、凡庸であると感じさせるだけのことである。
映像における普遍的価値を追っているという意味で、第2話の演出は極めて「山本的」である。
では、山本寛氏が第2話で描こうとした価値とは何か。
オーディオコメンタリーで石原監督は「第2話の演出は山本ってんですが、食べることにこだわっています」と発言している。この巻で山本寛氏について監督が触れたのは、後にも先にもこのときだけである。なぜ、この発言がされたのかを邪推することに意味があるとは思えないが、この発言自体に意味がないとは思えない。
また、同じく「食べる」という日常行為について、第2話の作画監督である池田和美さんは「(山本寛氏に)一口で食べることを注文された」とも発言している。もちろん、その注文は恣意的であるという。
米田光良さん、池田和美さんと作画に係るスタッフとのコメンタリーであったため、技術的、作画的な言及が非常に多く見られた中で、この二つの演出に係る発言は極めて異質であり、この山本演出を解釈するにあたっての重大なヒントであるように思える。つまり、「食べること」のもつ意味についての解釈が今回の演出の肝なのではないか、ということである。
結論から言えば、それは極めて小津的な装置として、外部から内部へと、つまり主題論から説話論へと移行する鍵として「食べること」を位置づけていることを示唆していると思われる。
具体的に言うと、翼人などといったストーリーの根幹的な要素に係る主題論から、神尾家での朝ご飯、流しそうめん、聖の作った弁当などといった「食べもの」を、往人にとっての外部を内部に取り入れることで、説話論的な日常を獲得していることが典型的事例として挙げられる。
更に、それら外部を往人は「一口」で食べるように指示されるのだ。
「一口」に含まれる寓意とは何か。それは外部と内部の間の距離感に関わるものである。
「一口」の寓意とは外部に対する無警戒であり、安心であり、信頼である。つまり「一口」によって外部と内部という距離関係が、ほとんど感じられなくなっていることを意味するのである。
言い換えるならば、往人にとって外部であった観鈴、晴子、佳乃、聖、美凪、みちるたちとの付き合いが、物語上、日常へと変化したことを「一口で食べること」が示唆しているのである。
また、別のシーンでは往人は美凪の母から煎餅をもらい、それをさいかに与えるという行為が描かれる。それは外部から「食べもの」をもらい、それを子供に与えることで往人が共同体の外部から内部へと移動したことを例証している。
小津的装置である「食べること」の解釈は、蓮實重彦氏の著書である『監督 小津安二郎』(筑摩書房)に詳しい。蓮實氏は小津監督作品における「食べること」に内在する意味を、「(食べることによって)存在と存在を結び付けている距離が長くなったり短くなったりすることで、物語を新たな段階に展開させるものである」(大意)としている。
山本氏が小津監督と蓮實氏の影響を受けていることは度々言及されている。例えば「大反省会 3年目のルサンチマン」における辛矢凡氏の発言には

出た。最近小津カブれの山本先生の大論陣。
とあるし、枯山水の御記帳で自身が
侯孝賢のこの作品(『戀戀風塵』)をやっと観て胸が詰まる。
禁欲の極み。『東京物語』のパロディもさることながら、小津よりも小津らしい。

やはりこの二人だけはおいそれと「尊敬する監督」と呼んではいけないのだ。内緒だが。

とも
またハスミか、と言うなかれ。
映画ほど単純なものはないし、そう言った言説を頑なに拒絶するのもまた映画だ。
とも書き記している。
以上の観点から、蓮實氏の論じている小津作品のもつ「食べること」の解釈とTVアニメ版AIR第2話における山本寛氏の「食べること」にこだわったという日常行為の演出に、意味的な連関を見出すことは、さほど不自然なこととは思われない。
第2話で山本寛氏が挑戦したことは、日常芝居である「食べること」という極めて小津的な装置を用いることによって、往人と周縁の人々との距離が近しくなっていることを詳らかにすることだったのである。


↓参考文献(というよりエピゴーネン

監督 小津安二郎

監督 小津安二郎