「フィルムは総合芸術である」

そう、総合芸術。
まさに、そーごーげーじつ。
物語を追おうと、画面の説話論的持続に嘆息しようと、レイアウトや演出に耽溺しようと、やはりそれだけでは「総合」芸術としてのフィルムを、狭隘な視野から断片的に眺めているにすぎない。フィルムが持つ訴求力は画やシナリオだけではなく、音楽であり、SEであり、モンタージュであり、役者であり、まさに「そこにある全て」であるからである。
勿論、その「狭隘な視野」による鑑賞を悪し様に言うつもりはないし、そんな資格もない。あげく、そんな能力もない。
しかし、これだけ知識の細分化と専門化が図られた現代という時代において、フィルムがフィルムであるためには、フィルムは細分化と専門化に抗うだけの知に対する統合性を鑑賞者に要求しているに相違ないと個人的には思っている。
そして私はその統合化の欲求に応えたいと思わないではない一人として、フィルムと対峙することを望んでいたはずなのだが、ハスミっちの言説に耽溺する内に


「何言ってもいいんじゃね?」


みたいな価値相対主義に無自覚にも陥っていたと偽りない本音を吐露することで、自己欺瞞からの脱却を図りたいと存ずる。









えーっと、抽象論で逃げまくりましたが、つまり何が言いたかったかというとですね、『涼宮ハルヒ』#13第十一話における劇中音楽にラヴェルだのショスタコーヴィチだのが使われていたということに全くもって無頓着だった自分に対するダメ出しです(笑)。山本さんとクラシック音楽との関係性を考えていればこんな迂闊なことには・・・。