『デジモンアドベンチャー』におけるうんこの弛緩と意義


完全に遅刻してきた者としては、もう既に語り尽くされている本作に対して付け加えることなど最早何もないような気がしないでもないのだが、それでも尚、興奮させずにおかない本作の魅力に触れてしまった者としては視聴した「証」として何事かを述べたくなるのは人情なのだ、ということでご勘弁を。それと、品性の欠片もないさいってーなエントリタイトルにもご容赦を。



まず本作における特徴として「大人」の不在が挙げられる。太一たちの父母の顔が画面に表れないことなどを例に出すまでもなく、お外でドンパチやって、あちこち破壊しまくっているのに「大人」が繰り出す気配が皆無であることなど、そんな例を挙げていってもキリがない。
一般に、「大人」が表象しているものは、「合理性」である。「大人」はその合理性によって説明のできない一種の超越的なものについて、(多少強引でも)何らかの解釈を与えることで自らの存在を慰撫する。「大人」の欠けている本作の物語は、超越的存在(コロモン他)に対する解釈や説明を放棄することで成立している。
だが、そうした合理性を欠いた物語の展開には、得てしてご都合主義的な展開を視聴者に意識させるはずなのだが、本作においては見ていてさほどの強引さを感じない。ということは、「大人」を表象する存在が物語に紛れ込んでいるのだ。
それは説明するまでもなく、コロモンの存在を本作で唯一疑っている太一である。つまり、視聴者が本作の世界を「理解」するために必要とされる視点は太一独りに依存しているのだ。勿論、子供である太一にとって、その「理解」には合理性も科学性も必要とされない。ただ、視聴者に感情移入される対象として、物語を理解する上での辻褄、整合性さえあれば構わない。
そこで登場するのがコロモンのうんこなのだ。コロモンは作中で2度うんこをする。1度目はコロモンのカタチと色彩が一般的な感覚からいって説明のつかない変化をするときであり、2度目はコロモンが唐突に意思疎通の可能な言語をしゃべり出すときである。いずれのコロモンの行為も視聴者にとって、理解の範疇を超えている。それゆえ「説明」を必要とするのだが、「説明」は「合理」であり、「大人」不在の本作にとってそれは作品世界の破綻を意味する。
その視聴者の心理を周到にはぐらかしているのが「コロモンのうんこ」というギャグによる弛緩である。このギャグによって、説明されるべき問題が視聴者(=太一)の意識からはぐらかされ、説明を省略した上で強引さを感じさせることなく次のショットへ繋いでいる。つまり、コロモンのうんこは次のカットへの緩衝材としてカット繋ぎのクッションという役割を担っているのだ。
また、コロモンがうんこを出すということは、視聴者にとって理解不能な説明されるべき詰まりものを廃棄するという表象的な行為ともなっている。コロモンのうんこが物語における作品の破綻と視聴者の認識上の便秘感を未然に回避しているといってもあながち言い過ぎではないだろう。
また、先ほど触れかかったが、この物語で起こった出来事自体が太一の主観のみに基づいて構成されているため「本当にあったことなのか」ということについての客観的な証拠が作品中で事実として視聴者に全く提示されていない、ということだけ付記してこのエントリ終わり。