『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』

あっという間に全話見た。
これを傑作といわずに何と言おう。
徹底して吐かれ続ける嘘が、虚構の中のドラマが、「人間」を彩る。
本作のキャラクター達は、徹底して「嘘」を吐き続けた。アルの数々の所行、バーニィの見栄、クリスがバーニィとアルに語った連邦での仕事内容、仲間の証としてプレゼントされたアルのバッチに付けられた盗聴マイク等々、セリフや行動がほとんど嘘で塗り固められている。
だからこそ、その嘘の端々から滲み出る真実の感情(ex.バーニィの決意やアルの涙等)が胸を打つ。
設定があり得ない*1などというような、ちんけなリアリズムでしか作品を鑑賞できないのは不幸だ。
リアリズムは、少なくとも「人間」のリアクションに徹底されていれば問題ない。
テーマを「戦争と向き合う等身大の人間」などとしているが、勿論、本作で描かれている戦いが戦争などでは「ない」ことも、設定があり得「ない」ことも重々承知している。
絵が「嘘」なら、アニメは毎秒8倍、時々12倍、稀に24倍「嘘」なのだ。
「嘘」は人を傷つけ、人を慰撫し、人を勇気づける。


上手な「嘘」ほど「人間的」なものはないのだから。


第3話 「虹の果てには?」
またしてもBパートの素晴らしさに呆れ返る。
アルとバーニィが連邦の秘密基地を捜索するシーンからおよそ4分もの間、二人のダイアローグだけで物語が進んでいく。「長すぎる」はずのこのダイアローグは音によって、冗長さを回避している。脳天気なBGMによって任務を子供じみた「探検」に、更にダイアローグを意図的に遮断する宇宙空間の「無音」は対比的であり、「接触」によってコミュニケーションが可能になるここでのアルとバーニィの関係では一種象徴的にさえ感じる。
第6話を見た後に見直してみると、高松信司氏と連名だった絵コンテだが、Bパートは高山文彦氏が切ったんじゃないかというような気がする。


第4話 「河を渡って木立を抜けて」
隊に戻ったバーニィのクロースアップショットから拳が出てきて殴られるシーンが面白い。ただ、戦闘そのものを描いているためか、高山コンテの割にはこの話数はあまり印象に残らなかった。


第5話 「嘘だといってよ、バーニィ
今更何を抜かしておるのだと言われようとも、やはりあの有名なゲーセンシーンには度肝を抜かれた。この圧倒的な冷徹さ! モブシーンや爆発、警官の動作など、アルの絶望と孤独が視覚的に迫ってくる。


第6話 「ポケットの中の戦争
予定調和的な結末をこれほどまでに魅せる高山文彦という才能に吃驚。カラーに変わったラストの写真に思わず涙。にくすぎる。


*1:そもそも「設定」にリアリティなんて存在するのだろうか? 設定があり得ないと指摘される多くの場合、視聴側の勝手な先入観が根拠になっている気がしてならない。