『ドラえもん』

「地球下車マシン」
原作と違って、演出の端々に描写のリアル志向が顕れていた。
浅い被写界深度でピントを変えて見せたいものを強調したり、キャラをフレームから外に出してセリフをしゃべらせたり、踏切なめローアングルでの同ポジ兼用ショットによる対比とか、ショットの構成や映し方などが実写っぽい。
それだけではなくて、からかいに来たジャイアンスネ夫バツが悪そうに覗き込むのび太のショットを会話の間に挟み込んだり、屋根から落ちる雪と葉っぱで出来た雪ウサギの耳の落下を重ねての不安の暗示とか、心情描写が緻密。
そして白眉なのが、西へ西へと流されるのび太をカメラの上下左右を入れ替えて3次元的な空間の広がりの中で見せていること。右や左や上や下、手前や奥に流されていくのび太が視聴者の方向感覚を散逸させる。凄い。
SF的なリアリティは多分ツッコミどころが満載なんだろう(例えば地球下車マシンのダイアルを回したのにすぐに滑っていかないゲレンデのシーンや踏切間際とそれまでの流される力の差異とか)けど、積み重ねられる日常的な描写のリアリティが圧倒的。SF的なリアリティが希薄であることも「何のための嘘か」を斟酌すれば、それが劇の構成上「つかれるべき嘘」であることは明白。
面白かった。


「なんとかばち」
いわゆる、『ドラえもん』の法則性から逸脱していてまいった。なによりドラえもんが物語に直接関わらないのがすごい。
かといって、ドラえもんが仏のように手のひらの上でのび太以下登場人物を手玉に取っているわけではないのもすごい。
「なんとかばち」という道具の特殊性もあるけど、傍観者としてのドラえもんと道具の作用者としてののび太以下登場人物の無自覚という構図が、凄まじかった。
「たまには、こんな日があってもいいよねー」というドラえもんのラストのセリフは、この回の自身の行為が(『ドラえもん』における)日常性の逸脱を我々に教唆していて、恐ろしい。勿論、このセリフは「蒔かない種は生えない」はずなのに、のび太が何もせずとも万事を成した偶然(に見せかけた必然)を指しているのだけれど、ここまで見てきた視聴者には最早ダブルミーニングにしか聞こえない。
ジャイアンスネ夫から逃げるのび太を映さないこと、その過程で水たまりで服を汚す瞬間を映さないこと、最終的な用事を言いつけるシーンでのび太ママの表情をリバースショットで映さないこと、曲がり角で唐突に少年とぶつかるシーンで洋服が汚れる瞬間を映さないこと。
あって当然であるはずの「約束事」の不在が、一層この話数を不気味にしている。
対照的に「なんとかばち」の仕業で起こる不自然な出来事は徹底的に描写される。
曲がり角から飛び出したのび太クリーニング屋の親父が水を掛けるシーンではその掛けられる瞬間が映され、風呂に入り、丹念にアイロンを掛ける親父とその別れまでが映される。更にジャイアンスネ夫がおつかいをし、庭木に水をやり、空き箱を粗大ゴミ置き場に運んでいく異様なシーンも同様である。
ラストシーンで黄昏をバックにしたジャイアン(それだけで異様)による「今日は変な一日だった」という発言は、ドラえもんのそれと同じく、視聴者を『ドラえもん』という予定調和から「非日常」へと誘った演出の特異性に対する免罪符となっている。この不気味さは道具の特異性にのみ依存しているわけではなく、演出的な意図によって誇張されていることは疑いない(原作読んでないけど)。


どうでもいいけどジャイアンのび太の家から飛び出すシーンでのストップモーション大隅『ルパン』っぽくて格好良かった。全然『ルパン三世』っぽくないのに(どっちやねん)。