『赤毛のアン』

たったの、たったの一度しか見たことのない作品について、好きだとか嫌いだとかを判断できるほど私は優秀でも高慢でもないと思っているけれど、ただ『赤毛のアン』が再び来週26日(月)10:20〜からBS-2で始まるという僥倖を見過ごしてはおけないというただひとつの良心でもって、この作品について僅かばかり語ることを許してもらいたい。
そしてこの文章に触れたことが、「あなた」にとってこの作品に初めて、二度目、三度目と、何度目かは知れないけれどその幾たび目かの接触を図らんとする「曲がり角」となってもらえること、ただそれだけを望んでいることを誓って綴ろう。


私は、アンがただ走るだけで涙する。
アンがその理不尽に消失した何かを取り戻そうと走り出す度に、どうしようもなく止めどない涙が溢れてくるのだ。
アンに分別があろうと無かろうと、想像力を駆使しようとしなかろうと、大袈裟な言葉遣いをしようとしなかろうと、私はアンの言う通り、アンが「変わった」とはつゆ思えない。なぜなら、アンはグリーンゲイブルズに来たときから、その失った何かを取り戻すために走り続けているからだ。
アンは何ものに追われているでも、追っているでもない。それでもなおただ走るという映画的な行為が、アンの普遍的な消失を私に突きつける。
アンはグリーンゲイブルズで手に入れたものと同じだけのものを失い続けるだろう。
だが、それは初めから無かったものではない。必ず得た後に消え失せるものだ。アンは失う度に涙を流し、その消失のために走る。
アンにとっては、失くした何かを追い求めて走っていられること、それだけで幸福なのだ。


果たして私にとっての『赤毛のアン』は、制作者の願い通り第50章で終焉を迎えることなく、心の中でアンはアボンリーをダイアナと一緒に事も無げに駆けている。


"GOD'S IN HIS HEAVEN. ALL'S RIGHT WITH THE WORLD."