日常アニメの恒常性と変化

2、3日前に、撮り溜めしてあった『まほらば 〜Heartful days〜』を見終わったせいか(←遅すぎ)、今回の『ARIA The ANIMATION』 第11話 「そのオレンジの日々を・・・」を見ていて感じたんですが、こういう日常アニメが必ず直面しなければならないのは、その日常が永遠ではないということについて描かなければいけないということなんですよね。

今回の『ARIA〜』の場合、灯里、藍華、アリスの3人とアリシア、晃、アテナの先輩3人の立場をシンクロさせて、その関係が永遠ではなくいつか終わりがやって来ることを暗示する。灯里は最後にはその関係の変化があっても不変な要素と変化する要素があって、それはどちらも素晴らしいことであるという一般的な結論を提示して話は終わるわけです。

まほらば』の場合、最終回でも結局鳴滝荘という共同体に変化は起きず、その恒常性によって関係が維持されるわけですが、その人間関係の変化は必ず近い将来に起きることを陰に陽に示した上で作品は終了している。

ここまで書いていてふと思い出したのが、『劇場版ワンピース オマツリ男爵と秘密の島』で描かれたルフィとその仲間達の関係。ルフィは次々といなくなる仲間達によって崩壊したルフィ海賊団という共同体から、新たな共同体を形成する仲間を見つけ出している。恒常性よりも変化による積極的な人間関係の構築を視聴者に提示している。日常アニメよりもずっと変化に価値を置いているところが、ヲタではなくて子供に向けて作られているというターゲットの違いとして表れているのかもしれない。

あずまんが大王』みたいなモラトリアムアニメにとっても、恒常性と変化というのは描かざるを得ないテーマになる。学園物がもっているモラトリアム性は他の日常アニメとは違って、卒業という変化が不可避なものとして存在しているので、作品のスタンスは若干異なるとは思うんですが。『あずまんが〜』も変化を規定した上で、それを前向きに受け止める点で今回の『ARIA〜』に近い結論を提示している。


ま、はっきりいっていい大人ならこういう人間関係の変化っていうのは現実に不可避であることはわかってるわけです。だから、そういう恒常性っていうものに対して一種の憧憬みたいな理想を描く日常アニメっていうのはある種のファンタジーであって癒しだのヒーリングだのといった効果をもつわけで。

日常アニメにとって、前向きに変化を受け入れる態度で終わるなら教訓的ですが、変化を拒否して恒常性を是認するなら現状回避的になる。当然作り手側はいい大人なので(笑)、教訓的な態度の方を暗示して終わるわけですが、こういうアニメに耽溺する視聴者側は都合よく日常の恒常性の部分だけを切り取って受け入れ、悦に入ってしまうこともあるんじゃないかなあと。ネタが古すぎて恐縮ですが(笑)、『機動戦艦ナデシコ』で視聴者が感情移入するように作られたキャラクターであるアキトが、作品中で『ゲキガンガー』の最終話を見ることを躊躇うのは作品の終了という変化を拒否する態度を暗示しているわけですし。

もっと男くさいマッチョなヲタ向けアニメが今の時代には必要な気がするんですが、ヲタはそういうアニメは見ないから、そういうヲタ向けアニメはなかなか出ないんだろうな(←自分のことは棚に上げつつ(笑)