『涼宮ハルヒの憂鬱』

昨日の「原作を読んでない人置いてけぼりなんじゃないか」という論調に反対する理由の補足
私はストーリー構成を入れ子状にしているのは、原作未読者をおいてけぼりにするためではなく、制作側の意図を成就するための必然であると考えてます。
考えられる意図は、

  • 原作に忠実でありながら既読者を楽しませるための仕掛け
  • 未読者に対しては話を「飛ばす」ことによって既に起こったことを「謎」として伏線化し、ミステリー的な仕掛けとして利用するため
  • 全話終了時にもう一度見直すことによって作品世界を視聴者自ら再構築させる試み
  • 原作自体が主張している「時間」の相対性を表現する方法

等々が考えられます。いずれにせよ、作品を一旦解体して再構築するわけですから、大変な労力と覚悟が必要であり、意図なくそんな苦労をするはずがない。
未読者がついていけないという主張が大勢を占めるなら、京アニの目論見と予想は外れたと言わざるを得ないと思いますが、普通の読解力で作品を見ていれば未読者でもついていけると思いますし、そうした配慮はされています。だからこそ次回予告で「この話は実は○話です」とバラしているわけで。


ここから先はほんとに単なるタチの悪い穿ちすぎな冗談みたいな邪推に過ぎないんですけど、色々上にこういう意図で話数を入れ替えているのではないかと書きましたが、実は心の底では、これは「京アニがTVアニメ視聴者の読解力を試すためのリトマス試験紙」なのではないかという気がしています。つまり、サービス狂の京アニがTVアニメにおける視聴者は、どこまでをサービスとみなすのかという試金石としているのではないかという気がするんですよね。
映画やOVAなら、金を払って見るわけですから、その時点で視聴者は篩いにかけられていて、どの方向にどの程度のサービスをすればいいかという尺度が明確になります。しかしTVアニメの場合、視聴するのに料金はかからず、視聴率の良し悪しによって作品の良し悪しが決定されるため、様々な人々に見られるように視聴者に迎合しなければなりません。行き過ぎたサービスは多数者に理解されずに駄作の烙印を捺されます。『ヤマト』、『ガンダム』といった過去の名作が、低視聴率や打ち切りという非情な結果の後に大ブームを巻き起こしていることは、そのことと無関係ではないと思われます。
京アニって、『MUNTO』くらいしか完全オリジナル作品を作っている印象がないですが、なんか、京アニ発で世間を震撼させるような凄い作品を構想しているんじゃなかろうかと邪推したくなるんですよね。ほんと、何の裏づけもない便所の落書きですけど。


どっちが補足かわかんねえぐらい長くなっちゃった(笑)。