『涼宮ハルヒの憂鬱』

#14のラストシーンであるアッカンベーの真意
昨日、この話数の鍵は映像における過剰と省略にあるような気がすると書きました。ではその根拠を以下に書き記していきたいと思います。
「過剰」についてですが、同じ構図からのショットの反復がまず目に付きます。特にAパートの対角線上のカメラと本棚のカメラのショットはギャグとしか思えない反復性によって執拗に描かれます。この反復性は、つまり日常のことを意味していると思われます。日常とは規則的な反復によって成り立っているからです。
同様に俯瞰ショットの多さも、SOS団の部室という日常的空間を見せるためであると思われます。というのも日常というものは反復であり、同一あるいは近似によって成り立つため、時間的、空間的な恒常性に依存するからです。
さらに目に付く、ワンシーンにおける長回しですが、これも日常を切り取る手段であると思われます。カットを割るということは、時間的、空間的連続性を恣意的に断絶させることだからです。
以上を根拠として、今話数の過剰=反復は日常を描くための演出的手段であるといえると思います。
では次に映像における省略についてですが、これも日常を描く手段であると思われます。
アップショットの欠落は、日常的に被写体(人間)が「自分」の前にアップで迫るということは日常的に起こり得ることではないことに依るものでしょう。
過剰であれ省略であれ、今回の演出はすべて日常を強調するための手段であったのだと考えられます。
ではなぜ「日常を強調する」必要があったのでしょうか。それは日常を強調することによって、映像上の非日常を浮き上がらせるためだったのだと思われます。
というのも、アップショットが極端に避けられているのは、前出の通り、日常を淡々と描くという意図だけではなく、数少ないハルヒのクローズアップを強調するため、という極めて逆説的な意図が存在しているからです。
他にも、俯瞰ショットを多用することは、視聴者の画面に対する客観性や距離感を演出し、アップショットの主観性を最大化する劇的な効果を生んでいます。
つまり、日常性を強調することによって、非日常的なショットである「クローズアップ」の劇的さを逆説的に強調しているのです。
今話数でのクローズアップはキョンが朝比奈さんにマフラーをかけてもらっているところを見て嫉妬するハルヒと、ラストシーンのアッカンベーの2カットしかありません。つまり、本当に強調したかったことは、ハルヒツンデレであるということと、アッカンベーという行為の2つであると考えるのが妥当であると思われます。
では、アッカンベーという行為の演出上の真意とは何でしょうか。
それは今話数が「最終回」であるということにヒントがあると考えられます。我々は話数をシャッフルされているため、感覚を狂わされがちですが、あのアッカンベーは「最終回のラストカット」なのだということに注目しなければならないのです。つまり、あのアッカンベーは物語上のキョンに対してのみ向けられた行為ではなく、物語上の一人称であるキョン=視聴者にも向けられているものであると考えるべきなのではないかということです。
とするならば、我々に向けられたアッカンベーの真意とは何でしょうか。それは恐らく本作の続編に関するものであると推察されます(理由は後述)。
続編は多くの人に希望されるでしょうし、本編中にも笹の葉(これはやるかもしれないけど)とかノートパソコンと『The Day of Sagittarius 3』と覚しきソフトが置かれているなどのネタフリはありましたが、私個人としてはやらない方がいいと思いますし、やらない気がしますし、山本さんはやりたくないと思っているのではないかと思ってます。企業利益とかそういう大人の事情は斟酌しないで純粋に制作の立場としては。
若干ネタバレかと思いますが、次作で『消失』を主軸にした場合、TVシリーズにおいて時系列を乱す今回の手法は、描く焦点がSOS団の「内部」から「外部」へと変化していかざるを得なくなるため、困難が予想されます。さらにネタバレですが、それはつまりハルヒが「超監督」足りえない存在になっていく過程を描かざるを得なくなるからです。
このアニメのすごさは、メタアニメとしての常軌の逸し方に負うところが大きいことは異論はないと思います。であるならば、超監督涼宮ハルヒがいないとなると、次作は続編という名の別物になる可能性が非常に高い。
シリーズ演出である山本寛さんもおっしゃってましたが、本作の様々な無軌道っぷりは、制作スタッフの暴走ではなく「ハルヒの暴走」であって、それをやれやれと思いながら見守るキョンの視点で見ているからこそ、時系列の入れ替えなどの無茶をキョンたる我々視聴者は許容できてきたのだと思います。
つまり、超監督涼宮ハルヒという免罪符によって、我々はこうした無軌道を「演出」として楽しむことが出来てきたのです。
そして、ようやく話が繋がりますが、ラストショットであるハルヒのアッカンベーは、山本寛氏がツンデレという性格を有した彼女に託したメッセージのような気がしてなりません。



我々が望めば望むほど「本作」の続編はないのだ、という極めてツンデレなメッセージを。


追記:morakanaさん(id:morakana:20060530)より引用

キョンが眠っている時に キョンを見つめながら つい「おつかれさま キョン」と 言ってしまい
そういう 恥ずかしさが一杯の時に キョンが目を覚ましたから 「もしかして 聞かれた?」と 驚いたと考えるのが つじつまが合うようにも思える

あのシーンで、ハルヒがあんなに狼狽する理由がよく分からなくって、違和感ありありだったんですが、言外の意味を汲み取れなかったので思いっきり意図的にスルーしてました。
なるほど。もしそういうことなら納得です。私はこの解釈を勝手に支持。
それにしてもリテラシー足んねー。