『メトロポリス』(2001)

鉄は熱いうちに打てということで。初りんたろう
見ていてゾクゾクした。こんな感覚は初めて。
私なりの印象を一言で言えば、「過剰を蕩尽する作家」、それがりんたろう監督。
過剰なまでに描き込まれている「メトロポリス」という世界は蕩尽されるために存在している。
過剰に装飾されている作品中の小道具や過剰なまでに発達したメトロポリスという街、過剰に進化したロボットと過剰な数の人間、構築した過剰をアニメーションという「祝祭」の中で全て蕩尽する。
「祝祭」には過剰を礼賛することと、蕩尽することという二つの側面が存在しなければならない。「祝祭」は、安直な物言いをすれば、創造と破壊という二面によって成り立っているからである。
二律背反のようでいて、そうではない。創造のための破壊か、破壊のための創造か、であり、つまり行為は円環する。進歩や退歩といった主観に基づいた直線的な前後の運動ではないのだ。人間は作り続けることも壊し続けることも叶わない。「祝祭」はその創造と破壊のバランスバーとして存在する。人間には自覚的にそのバランスをコントロールすることさえ出来ないのだ。これは言わずもがなだが一般論としても、古来から人間という生命が自覚的にせよ無自覚的にせよ、守ってきた一種の戒律であり、それが人間という存在が存在しうるレーゾンデートルでもある。
それゆえ、人間は常に「祝祭」という伝統を必要とする。もしそれがなければ、我々は創造の中で愚鈍な模倣の模倣に埋もれるか、破壊の中で生産性を失って朽ちるか、いずれにせよ退廃の道を歩むことを余儀なくされるのだから。
本作で描かれるロボットも人間もそれぞれが下等でも上等でも同等でもなく、ただ、人間によって「創造」されたものに過ぎないのだ。優劣ではなく、単純に、過剰なものとして蕩尽される。
なるほど。本作はりんたろう監督の作家性と作品のテーマが見事に整合しているから、こんなにゾクゾクしたのだろう。こりゃ是非他の作品が見てみたい。
しっかしそれにしてもこれだけのアニメートとCG技術の粋が結集した、2001年の公開作品であるにもかかわらず、この時代がかったイモくさい演出はどうにかならんのか。場面転換のアイリスアウトやワイプとか野暮なクロースアップとか・・・・・・、あっ、ひょっとしてわざと狙ってる?