ツンデレ覚え書き


唐突にツンデレについて語ってみる。
といっても、ツンデレという概念そのものや定義について語る気はないので悪しからず。ただの独り言です。


私は一般にツンデレと称されている人格的側面を嫌ってはいない。
だが、巷に溢れるツンデレキャラは総じて嫌いである。
何故かと思案していたのだが、漸く一つの結論に達した。
一言で言えば、ツンデレという概念が<構造>としてあるなら一向に構わないのだが、それが「制度」と化した時に、嫌悪の対象へと私の中で変化してしまうのだ、ということに最近気付いた。
過去も現在も恐らく未来も、ツンデレという人格的側面は存在し続けるだろう。ただ、過去においてはそれが潜在的な<構造>の中で成立していたのだが、現在及び未来においてツンデレという概念は制度化してしまっている。
つまり、ツンデレキャラというものは過去において無自覚的な構造の中で派生した人格的側面における一部の強調であるのに対し、現在において、全てとはいわないがツンデレキャラは「創られた」人格として自覚的な制度の中で人造されたものとなっているのである。制度として抽象化、固定化された概念から、フレキシブルな「人間」を演繹することは出来ない。
もっとも、フレキシブルな「人間」の性格の一部を極大化することがキャラクター造形ではある。しかし、一部の極大から人格を形成するのは倒錯した手順であると言わざるを得ない。
具体例としてツンデレを槍玉に挙げたが、この<構造>と「制度」の関係はツンデレという概念だけにはとどまらず、当然、「萌え」などといった概念にも適応される。勿論、「萌え」などという制度に対しても、私が嫌悪を覚えていることは言うまでもない。制度化は人間を描こうとすることを放棄する行為に他ならないからである。
要するに、私はツンデレであれ萌えであれ、潜在的な<構造>として存在する概念だったものが、顕在的な「制度」となって迫ってくるグロテスクな表象に、激しい嫌悪を感じているのである。最早それは人間ではなく、制度と化した概念によって生み出された人の形を模したモンスターなのだ。そのモンスターが演じる「人間的」な被写体に、生々しく接近することがどうして出来るだろう。
ただし、この嫌悪は、刹那的快楽主義者として制度化に無自覚であり続けている消費型ファンに対してではなく、むしろ制度化を商売上の理由だけで自覚的に推し進め続ける製作者乃至制作者に向けられるべきだろう。
ただ、商売上の制度化を忌み嫌うだけの「純情」さも、それを甘受するだけの「寛容」さも、私は持ち合わせてはいないのだが。