『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)

何故今の今までこの映画を観てこなかったのかが悔やまれると同時に、「今」初めて観たことによる時空を超えた映画的体験の邂逅という僥倖に、私は立ち会った。
後悔も幸運も、実のところ根は同じで、映画的体験が時空を超えること。つまり、「時をかける」ことに依る。そう、私は文字通り本作を観たことによって、『時かけ』との新たな遭遇を果たしたのだ。
細田版『時かけ』、というよりむしろ(私が今まで観たことのある)細田作品を、本作は私に再定義させた。しかし話が煩雑になるので、ここでは『時かけ』に限定して話を進めよう。


私にとって、細田時かけ』は21世紀の『ビューティフルドリーマー』だったのだ。


もっとも、ラムと真琴や、物語、テーマの類似といった親近性による邂逅ではない。
始点と終点、そしてループ(反復)。「映画は人生である」ための最大公約数の構造を両作品が有し、押井、細田両氏が共にそれを描いているからである。
ビューティフルドリーマー』を映画内映画とみなしてメタ化することで、物語の意味を多岐複雑に分化させるのも解釈だが、「映画=人生」というたったひとつの等式によって、物語の意味を単純化するのもまた、解釈のひとつだろう。
映画(人生)には始まりがあり、終わりがある。そして終わり(死)まで、映画(人生)は永遠にループ(反復)し続ける。
ビューティフルドリーマー』は映画を描くことで、『時かけ』は人生を描くことで、映画が人生を、人生が映画を獲得する。この究極的な構造的同位性を両作品は描出しているのである。
そしてその映画と人生の不思議な邂逅という映画的体験を、私は同時期に両方向から体験してしまったのだ。これを僥倖といわずしてなんと言おう!!


ビューティフルドリーマー』は私の中での『時かけ』の相対価値を示唆する一方、同時に今までいまいちよく分かっていなかった両監督に対するパースペクティヴをもたらした。


細田守は極めて、そして努めて「映画的」な作家なのだ。
そして「映画的」であることを捨てることによって、「映画とは何か」を模索する宛てのない旅を続けている、それが押井守なのだろう。