『じゃりんこチエ』

先日、ごちゃごちゃのVHSを整理していたら『じゃりんこチエ』が出てきて、何の気なしに眺めていたらあまりにも面白いのでこれも何かの縁かと、だらだらと高畑レトロスペクティヴを敢行中。とはいえまだ最終話まで見てないし序盤の10話分くらいは欠落しているんですけどね。


めちゃめちゃな性格のキャラクターたちばっかりなのに、物語に感情移入してしまうのは偏に「人間」が描かれているからだろう。
抽象化された観念から人造されたキャラではなく、「人間」の拡大解釈による人物造形。そしてその「人間」をなべて包み込むのが、冷たくも暖かい、すれ違いぶつかり合いながらも思い合う人情、機微。
やはり「人間」を描かずんば「ドラマ」に非ず、か。
TVなんて元々画面を「観る」ものではなく、流れてくる音を適当に「聞く」ものだ。「ドラマ」はTVのためにあり、「映画」はスクリーンのためにある。TVは常にドラマ的であり、よって物語が重要になる。分かりやすくて感情移入できる、言語的なストーリーが。
余人曰く、映画は監督のもの、ドラマはライターのものである。


くだらん思いつきはともかく、ミツルの結婚式でのテツのスピーチは何度見ても泣ける。幾度となく偽の涙を流す。
それと花井センセのインテリにしか笑えない漢詩を弄したギャグや李白の引用とかが、どことなく高畑勲っぽい(笑)。


まあとにかく私が最近あまりTVを見なくなったのは、「ドラマ」とも呼べないドラマの氾濫と、稀に在っても「ドラマ」しか存在し得ないTVの狭隘さに閉口してのことだと本作を見て痛感。
東大繋がりか、高畑勲の『じゃりんこチエ』が山田洋次の『男はつらいよ』に見えてくるからなあ(笑)。洒落にならん。