『キッズ・リターン』(1996)

何もかもが剥き出し。躍動するエネルギーが画に満ちている。
がたつく移動撮影も長回しも、フィルムに剥き出しのエネルギーを焼き付けるためだけに執られた手段に過ぎない。
ほとんど全てが回想であるというシナリオゆえ、ラストの着地点が見えてしまっているのだが、それでも全く時間を感じさせずに物語に没入してしまうのは、まさに『キッズリターン』が「映画」であるからだ。
もっとも、同ポの繰り返しや人物の同位性を示す省略や繰り返しなど、映像技法と説話論的持続が符号していることが、『キッズ・リターン』を「映画」であると規定しているのではない。
画と物語の相互補完、それは映画の必要条件である。
より重要なことは、北野武が撮ったこの映像が、「剥き出し」であるということ。観念や説話性を超えて、我々視聴者に迫る生々しさ、これが映画でなくて何だというのだろう?
キッズ・リターン』は私の自意識を減退させる映画だ。私にとっての本作はこの一文で足りる。