『BROTHER』(2001)

最初はサービスのしすぎだと思った。義理人情とは何か、義侠心とは何かを「外国人のため」に描いているのだと思った。
だが違った。これは「日本人のため」に描かれた「日本」の映画だ。
それは北野武の言語感覚に表れている。
過去のヴァイオレンス映画において、北野武はただの一度も抗争を「戦争」と表現していない。なぜならば、その闘いは常に私闘であったからだ。
しかし、今回の戦闘は「戦争」だと言う。なぜならば今回の闘いは、全て無理難題を突きつけられて「外交」不能となった場合にのみ発生している。だから「戦争」なのだ。
端的な例は最後のマフィアとの「戦争」だ。これはマージンを20%から50%につり上げるという理不尽な要求によって「外交」不能に陥ったために避けられなかった「自衛戦争」である。剥き出しの暴力による私闘ではない。しかもその行動原理は日本的精神である「仁義」に基づいている。
かつての北野映画で「仁義」について説明的な台詞が用いられたことはない。しかし今回は大杉蓮が敵方の組に入るシーンで、契りの席で滔々と「仁義」についての講釈を垂れさせている。
更に、Siraseと組むためにKatoは自決する。頑なに一匹狼を気取っていたSiraseはKatoの行為に胸打たれてYamamotoと組む。この映画において、外国人は損得勘定で動き、日本人は義理人情で動いている。
しかし外国人には「仁義」が分かっていない。その証拠にYamamotoが死ぬ前に入った店のマスターは「日本人は分からない」という。更に終始行動をともにしてきたはずのDennyでさえラストで、「俺の人生は滅茶苦茶だ。大人しくヤクの売人をやっていればよかった」と口走っていることからも明らかだ。
しかしDennyは最後の最後に、Yamamotoの行動の動機を理解する。「仁義」とは何か。「BROTHER」とは何かということを。
そしてDennyだけが生き残るのは、「仁義」を結果として貫いたからである。外国人でありながら、DennyだけがYamamotoを「ANIKI」と呼んでいたことからも明らかである。その証拠に血縁関係があったはずの真木蔵人は「仁義」を欠いたためにマフィアに殺される。
この映画には様々な設定上の違和感があるが、Yamamotoの組織した組にいわゆる白人が存在しないのもそのひとつである。さらに敵(マフィア)の姿はまったく映されない。そして他でもないDenny(黒人)がパートナーに選ばれる。
こうした数々の状況証拠は、本作の先の戦争との類似を示しているが、面倒なので詳述は避ける。分かる人には分かるだろうし、分からない人には百万言費やしても分かるまい。
北野武がヤクザ映画を撮り続けているのは「仁義」を描くためだとしか思えない。それは私たちが戦後、W.G.I.P(War Guilt Information Program)によって失った他ならぬ「日本人」のアイデンティティであるから。
私はこれほど能弁な北野作品を他に知らない。