『Dolls』(2002)

何とも分かりやすいモンタージュ
何とも分かりやすいキャラクターの同位性。
何とも分かりやすい赤のイメージ。
何とも分かりやすい人形のモティーフ。
『BROTHER』を観たときも思ったが、どうもこの頃の北野武は説明過多じゃないかなあ。過多というか、北野武のサービス過剰が真っ直ぐすぎるというか。
北野武の中でわだかまっていたこの説明性の過剰さが、次のエンタメ映画『座頭市』という逆方向への極端へ走った原因なんじゃないかなあとか思ってみたり。
ま、単に私が北野映画を見慣れてきただけかもしれんが。
前半ちょっと眠かったんですが、後半フカキョンの登場とともにテンションが上がったのは決して私が深田恭子が好きだということでも「まーめみむめもっ、まーめみむめもっ♪」が好きだということでもないはずで、なぜかと訝っていたのだが、それは「歩く」という行為がフィルムに共鳴しだす演出的な妙味によるのだということを某ノオトの本作に対する記述を読んで漸く理解。遅いよ。
それはそれとして、言うまでもないことだがこの映画はまさに「赤」に尽きる。呆れるほど強調される赤あかAKA!! そしてそれは恐ろしいまでに美しく、淫靡で、儚く、怖い。
なぜなら「赤」が画面に映っているときには、常にそこに「狂気」が映っているからである。その画面からは、「赤」のもつ美だけではなく、強烈な情念が横溢する。
言うまでもないが、幸せだった頃の回想のシーンで一切「赤」が画面に表れず、心に傷を負った人物達がみな一様に「赤」に無意識に執着していることからも明らかだろう。
「赤」は美しくもあり、情念でもあり狂気でもあるという日本的色感をこれでもかというほど画面に焼き付ける北野武
これもやはり『BROTHER』を観たときに感じたことだが、世界へ向けて作品を作っているはずの北野武という映像作家は、実は常に内向きの、つまり日本人のための映画を撮っているとしか思えないのだが。
今回の場合、それは我々日本人が忘れかけている「赤」のもつ畏怖すべき色情なのだろう。


ちなみに私も紅葉の中を歩くあのシーンはマスクばれにしか見えなかったなあ。といっても技術的なことはよく分かりませんが。