アニメーションの時代性

アニメの時代性(んなもんほんとにあるのかしらんが)にとことん無頓着な私がこんなページを書いてていいのかと、吾にも非ず時々思うのは今現在楽しみに毎週見ているアニメが『ガンバの冒険』のみであるという不遜な態度に起因していたりする。
しかし、今のところ私には『ガンバの冒険』以上に想像力をかき立てられるTVアニメを見いだせない。
もちろんそれは今のTVアニメが悪いのではなく、今のTVアニメに想像力をかき立てられない私に問題がある。
即ち、アニメの時代性に抵抗したり迎合したりする意志さえまったくない、そもそも関心自体がほとんどないという私が悪いので、こんなページを書いてていいのかという冒頭の文句に帰着するのであった。


ということで、私は私が面白いと思った、私の身の丈の、私というフィルターを通した見方でこのページを綴っていくという、以前とちっとも変わらない独りよがりを継続するにしくはないという結論に達したという2ヶ月ぶりの更新でした(センテンスが相変わらず長い)。

『監督・ばんざい!』(2007)

体調悪くてダルかったけど遅ればせながら調子に乗って観てきた。
またしても昼間の回で客8人!! その上、上映後はみなさんロビーで大あくび! そら『座頭市』がトラウマにならあね。

やっぱり「またかよ!!」という印象もあったけど、よーするにこれって北野武RE-BIRTH編? 個人的にはREVERSEでも構わないけど(笑)。

TAKESHIS'』をDEATH編として「北野武」とその映画との訣別と捉えると、本作はいわゆる「創造的破壊」を担い、その相克の先にある何かを模索したものであると見るのは些かも不自然ではない。
相変わらずたけし人形の使い方とか、あまりにも露骨というか、分かり易すぎる。「おいらには責任ないよ。おいらはピエロであって、傀儡なんだから」とでも言いたげに、その全責任を前作で殺した「北野武」という既成の権威に押しつける。

公開前はキートンの『探偵学入門』でもやる気か!? と思った短編映画『素晴らしき休日』を観たときにも思ったけど、本作は映画内映画でもドキュメンタリーでもノンフィクションでもない。フィルムは止まり、焦げ付くのだ。
「まだ始まっちゃいねえよ」という金子賢の台詞を挟み込む、ファーストショットとラストショットの相似的な縦構図が止揚する、そのクレーンの動きと和するかの如き荘厳さ!


北野武」亡き後、TAKESHIは初めて映画「への」愛を映画で綴るという「愛の形」を提示した。
破壊と再生の叙事詩を完結させた後、TAKESHIはどこへ向かうのか。長い次回予告を見せつけられた感がある(笑)。

『大日本人』補足

どうにも書いた後にしっくりこなくてもやもやしてたので、卑怯を承知で付け足し。


私が映画の中で感じていた「照れ」とは、提示されるだけでちっとも追求されないさまざまなテーマが多すぎるところ。というか何一つ描こうとしていないし、ただそれがそこにあることを示唆するに留まっていたところにある。
別にそれだけなら自己主張をしない慎ましく禁欲的な映画だなあと思うのだけれど、それをみな笑いで包括しようという態度に、私は松本人志の「照れ」を感じていた、というのが前回のエントリにおける「照れ」という印象に対する詳述。


しかし、今日ふと手に取った『日経エンタメ』の松本人志インタビューを拾い読みしたところ、ああ私の見方って主客が逆転してたのね、ということにやっと気付いた。
つまり、この映画にとっては笑いを描くことが目的で、テーマは副次的な産物に過ぎないのだろうということだったのでした。


松本人志は、「どうしたら笑いをとれるか」ということが思考の大前提にあって、笑いの手段として映画を捉えているのだろうと思った。「どうしたら笑いを撮れるか」についてはさほど関心がないのかもしれない。
笑いを軸にしてみると、あれほど散漫に感じた本作が(良し悪しは別にして)ストイシズムに満ちた一貫したものに見えてきたので書き足してみた。

『大日本人』(2007)

昼間の回に行ったら自分を含めて何と7人! 後ろのカポーの全くツボを得ない笑い声に少々辟易しつつ漸く観た。


面白いんだけど、もっと面白くできるんじゃないだろうかと他人事ながらに思わせる何とも言えない映画だった。奇を衒わずに普通に見せてくれればいいのに。
「普通でないこと」が主題のひとつだから、「普通」の見せ方をしないという手法で撮ったのは「普通」なことだとは思うんだけど。
でもあのダイアローグは定住できる視点が欠落しているせいか、見ていてとにかく居心地が悪かった。長回しが多くて、最近映画を見てなかったせいか睡魔が。
松本人志は今まで無かった映画を作るみたいなことを言っていたような気がするけど、自己(主題)に対する「照れ」が随所に散見されたのが残念。映画なんだから照れるべきところはそこじゃないだろとか思ったり。
とりあえず語るべき言葉が見当たらないので態度は保留ということで。何せまともに映画観たのなんざ半年ぶりってんだからNE!!(びっくら


そしてやはり松竹系ということで流れた『河童のクゥと夏休み』の予告に本作以上に見入る。シナリオは原作とは割と違うみたい。
楽しみ。
というか予告編で既に勝手にぐっときてるわけですが(夏っていいなあ)。

『らき☆すた』監督交代


ん〜、このタイミングですか。この後の本作への関わりが一気に希薄になりそうだなあ。げんなり。


ところで、山本ファンを自認しておきながら本作についてこれ以上黙殺し続けるのは理に反すると思うのでちょっとだけ。
のっけから結論を言うと、私にとって『らき☆すた』は面白いんだが楽しめない作品である。これはアニメが始まる前から分かってた。原作をちらと読んだだけだけど、どうにもソリが合わなかった。
ここでいう「面白さ」というものは、作り手が視聴者に向けて設置した様々な仕掛けや工夫などといった、客観的に判別や解釈が可能な演出上の装置が優れているか否かを意味すると定義する。
一方、ここでいう「楽しさ」というものは、個人的な好悪や作品への愛、リスペクトといった、主観的な感情に左右されるものと定義する。


らき☆すた』は間違いなく面白い。ただ、放送前の予想通りやはり楽しめない。


私は「見たいTVアニメがない」と某所で発言し、そう思っていたのだけれど、ふと「TVアニメが見たくない」のではないかと思いついてぎょっとした。「面白さ」はおろか「楽しさ」もない作品が多すぎる(あくまでも主観です)。
そしてめちゃくちゃ面白いはずの『らき☆すた』を楽しめないのは、「快楽装置としてのアニメーション」に対する興味が減退していることに起因する(ここをずっと更新してなかった理由でもある)。


公式の朴訥な「まだその域に達していない」という文面をどう解釈すべきなのかわからないけど、個人的にはそういうことなのかなあと思った。
外衆なので勘繰りたくなる(オフレコにしておくけど色々とめちゃくちゃ勘繰った(笑))けど、体調面で降板とかではなさそうなのでそこだけ勝手に一安心。
作り手の苦悩について無責任なことは言いたくないので月並みな結論ですけど、いちファンとしてはご本人が楽しめる作品を作ってもらいたいなあと。そういうのって何故か伝わる気がするので(理屈じゃない)。

『赤毛のアン』

たったの、たったの一度しか見たことのない作品について、好きだとか嫌いだとかを判断できるほど私は優秀でも高慢でもないと思っているけれど、ただ『赤毛のアン』が再び来週26日(月)10:20〜からBS-2で始まるという僥倖を見過ごしてはおけないというただひとつの良心でもって、この作品について僅かばかり語ることを許してもらいたい。
そしてこの文章に触れたことが、「あなた」にとってこの作品に初めて、二度目、三度目と、何度目かは知れないけれどその幾たび目かの接触を図らんとする「曲がり角」となってもらえること、ただそれだけを望んでいることを誓って綴ろう。


私は、アンがただ走るだけで涙する。
アンがその理不尽に消失した何かを取り戻そうと走り出す度に、どうしようもなく止めどない涙が溢れてくるのだ。
アンに分別があろうと無かろうと、想像力を駆使しようとしなかろうと、大袈裟な言葉遣いをしようとしなかろうと、私はアンの言う通り、アンが「変わった」とはつゆ思えない。なぜなら、アンはグリーンゲイブルズに来たときから、その失った何かを取り戻すために走り続けているからだ。
アンは何ものに追われているでも、追っているでもない。それでもなおただ走るという映画的な行為が、アンの普遍的な消失を私に突きつける。
アンはグリーンゲイブルズで手に入れたものと同じだけのものを失い続けるだろう。
だが、それは初めから無かったものではない。必ず得た後に消え失せるものだ。アンは失う度に涙を流し、その消失のために走る。
アンにとっては、失くした何かを追い求めて走っていられること、それだけで幸福なのだ。


果たして私にとっての『赤毛のアン』は、制作者の願い通り第50章で終焉を迎えることなく、心の中でアンはアボンリーをダイアナと一緒に事も無げに駆けている。


"GOD'S IN HIS HEAVEN. ALL'S RIGHT WITH THE WORLD."

『ドラえもん』

「地球下車マシン」
原作と違って、演出の端々に描写のリアル志向が顕れていた。
浅い被写界深度でピントを変えて見せたいものを強調したり、キャラをフレームから外に出してセリフをしゃべらせたり、踏切なめローアングルでの同ポジ兼用ショットによる対比とか、ショットの構成や映し方などが実写っぽい。
それだけではなくて、からかいに来たジャイアンスネ夫バツが悪そうに覗き込むのび太のショットを会話の間に挟み込んだり、屋根から落ちる雪と葉っぱで出来た雪ウサギの耳の落下を重ねての不安の暗示とか、心情描写が緻密。
そして白眉なのが、西へ西へと流されるのび太をカメラの上下左右を入れ替えて3次元的な空間の広がりの中で見せていること。右や左や上や下、手前や奥に流されていくのび太が視聴者の方向感覚を散逸させる。凄い。
SF的なリアリティは多分ツッコミどころが満載なんだろう(例えば地球下車マシンのダイアルを回したのにすぐに滑っていかないゲレンデのシーンや踏切間際とそれまでの流される力の差異とか)けど、積み重ねられる日常的な描写のリアリティが圧倒的。SF的なリアリティが希薄であることも「何のための嘘か」を斟酌すれば、それが劇の構成上「つかれるべき嘘」であることは明白。
面白かった。


「なんとかばち」
いわゆる、『ドラえもん』の法則性から逸脱していてまいった。なによりドラえもんが物語に直接関わらないのがすごい。
かといって、ドラえもんが仏のように手のひらの上でのび太以下登場人物を手玉に取っているわけではないのもすごい。
「なんとかばち」という道具の特殊性もあるけど、傍観者としてのドラえもんと道具の作用者としてののび太以下登場人物の無自覚という構図が、凄まじかった。
「たまには、こんな日があってもいいよねー」というドラえもんのラストのセリフは、この回の自身の行為が(『ドラえもん』における)日常性の逸脱を我々に教唆していて、恐ろしい。勿論、このセリフは「蒔かない種は生えない」はずなのに、のび太が何もせずとも万事を成した偶然(に見せかけた必然)を指しているのだけれど、ここまで見てきた視聴者には最早ダブルミーニングにしか聞こえない。
ジャイアンスネ夫から逃げるのび太を映さないこと、その過程で水たまりで服を汚す瞬間を映さないこと、最終的な用事を言いつけるシーンでのび太ママの表情をリバースショットで映さないこと、曲がり角で唐突に少年とぶつかるシーンで洋服が汚れる瞬間を映さないこと。
あって当然であるはずの「約束事」の不在が、一層この話数を不気味にしている。
対照的に「なんとかばち」の仕業で起こる不自然な出来事は徹底的に描写される。
曲がり角から飛び出したのび太クリーニング屋の親父が水を掛けるシーンではその掛けられる瞬間が映され、風呂に入り、丹念にアイロンを掛ける親父とその別れまでが映される。更にジャイアンスネ夫がおつかいをし、庭木に水をやり、空き箱を粗大ゴミ置き場に運んでいく異様なシーンも同様である。
ラストシーンで黄昏をバックにしたジャイアン(それだけで異様)による「今日は変な一日だった」という発言は、ドラえもんのそれと同じく、視聴者を『ドラえもん』という予定調和から「非日常」へと誘った演出の特異性に対する免罪符となっている。この不気味さは道具の特異性にのみ依存しているわけではなく、演出的な意図によって誇張されていることは疑いない(原作読んでないけど)。


どうでもいいけどジャイアンのび太の家から飛び出すシーンでのストップモーション大隅『ルパン』っぽくて格好良かった。全然『ルパン三世』っぽくないのに(どっちやねん)。